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追悼 高橋たか子

 「群像」9月号に、恩師の追悼文を書いた。私は文芸評論家でも日本文学の研究者でもないから、「あくまで個人的な思い出しか書けませんよ」と「群像」編集部に念を押したのだが、それでよろしいということであったので、以下のようなものを寄稿した。
 与えられた紙数は原稿用紙5枚半だったので、書きたかったことの三分の一くらいしかかけなかったが、いたしかたない。いずれもっと詳しい回想を書くことになるだろう。
 

  高橋たか子の思い出
 

 大学生の頃、小説を書いていた。小説執筆の真似事をしていた、といったほうが正確であろう。当時は埴谷雄高に傾倒していたので、ひたすら観念的なものを書いていたのだが、不遜にも、それを誰か作家の先生に見てもらいたくなった。
 ちょうどその頃、高橋たか子の『空の果てまで』を読んで、師事するならこの人だと確信した。そしてこの無鉄砲な大学生は作家に電話をかけることにした。個人情報などという言葉が存在しなかった時代のこと、一〇四番に電話すれば、鎌倉市在住の高橋たか子の電話番号はすぐに教えてくれた。

 電話をするとご本人が出た。用件を伝えると、次の日曜日に訪ねてきなさいという。後になってから聞いたのだが、読者との面会はすべて断っていたが、私が電話をした日はたまたま「例外的に寛大な気分だったので承諾した。そのようなことは後にも先にもあのときだけだった」のだそうだ。私はきわめて幸運だったのである。

 次の日曜日、鎌倉のお宅を訪ねた。高橋和巳はその二、三年前に亡くなっていた。初対面で何を話したのか、まったく覚えていないが、持参した小説をお見せすると、「読んでおきます」とのお返事だった。

 翌週、「読んだ。感想を述べるから来なさい」というお手紙を頂き、ふたたびお宅を訪ねると、以下のようなことを言われた。「これは小説などというものではない。そもそも小説を書くには若すぎる。もう少し年をとってから書きなさい。ひじょうに明晰な文章だから、むしろ翻訳家に向いているのではないか。私のところに時どき翻訳の仕事がくるので、下訳の仕事をしなさい」。

 この一言で、私の人生が決定してしまったのである。

 今から考えると、めちゃくちゃな話である。私は十代の頃にアテネ・フランセに通ってフランス語を学んだのだが、大学ではロシア文学を専攻したので、当時のフランス語力はせいぜい仏文科の学生程度だったのである。

 モーパッサンやモーリアックの下訳をした後、翻訳家としてデビューさせていただいた。『嫉妬』という本の翻訳を依頼された高橋さんは、編集者に「私が序文を書くから、この青年に翻訳させてやってほしい」と、「話をつけ」てくれたのである。その後は共訳書を一冊出しただけで、仕事をごいっしょさせていただく機会はなくなった。

 ところが数年後、まったく別種の仕事を頼まれた。「自分は今後修道女として生きることにしたので、世間との接触を断つ。しかし出版社などとは連絡を取り合う必要があるので、代理人になってほしい」。というわけで、私は高橋さんが亡くなるまで、俗世間との窓口をつとめることになった。高橋和巳の著作権もずっと私が管理してきた。

 その言葉通り、高橋さんは信仰生活に入られた。著作権について問い合わせてきた人から「どういうご関係ですか。弁護士ですか」と尋ねられると、「弟子です」と答えていたのだが、考えてみれば、私は結局、小説家にはならなかったのだから、弟子というのは正確ではない。一種の秘書だったというのが事実に近いだろう。その秘書が発案した仕事もある。『高橋たか子自選小説集
全四巻である。ごく最近まで何度も「あなたのおかげであれを出すことができた」という感謝の言葉を頂いた。

 話は遡るが、じつは小説執筆のお手伝いもずいぶんした。だがこれについてはまた別の機会にあらためて書くことにする、後世の研究者のために。

 後でも触れるが、高橋さんがマリタンの研究を始めてからは、参考文献を集めるという仕事が加わった。

 晩年の高橋さんは有料老人ホームで独り暮らしをされていたが、去る七月十二日の朝に亡くなった。死の三日前に訪ねたとき、「体のどこも悪くないんです」と言っていたので、私にとっては突然の訃報だった。享年八十一歳。自然死である、念のため。

 振り返ってみると、高橋さんは、最初は高橋和巳の妻として、次いで小説家として生き、その後は修道女として生きた。自分の好きなように生きたといえないこともない。

 最後に、生前には実現しなかった企画をみっつ紹介しておく。

 ひとつめ。高橋さんはジャック・マリタンというカトリック哲学者に傾倒していて、自分の書いたマリタン論をみずから仏訳し、フランスの出版社に持ち込んだが、出版の話は立ち消えになったようだ。

 ふたつめ。アベラールとエロイーズの物語を下敷きにした、現代フランスの女性作家の小説を邦訳し、複数の出版社に持ち込んだのだが、まだ出版されていない。

 みっつめ。亡くなる数カ月前に高橋さんから、年長の女性作家Sさんと対談をしたい、という電話があった。何について話すのですかと尋ねると、「私たちと同時代の男性作家たちがいかに男尊女卑だったか」について話したいという。知り合いの編集者を通じてSさんにそのことを伝えたが、Sさんからのお返事は「あまり興味が湧かない」というもので、結局その対談は実現しなかった。

 四十年にわたるお付き合いのなかで、「男尊女卑」「女性蔑視」という言葉は高橋さんの口から何度も繰り返し聞かされた。「だから二度と京都には住みたくない」と、口癖のようにおっしゃっていた。亡くなったのは茅ヶ崎市である。


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