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妻の思い出 (1)

 ラカンを引くまでもなく、人間は二度死ぬ。生物学的な死と、象徴的な死。前者は臨終の瞬間であり、後者は葬儀だ。ラカンのいう「象徴的」は、大雑把には「社会的」と言い換えてもいい。
 葬式をするのは人間だけなので、考古学では葬儀の遺跡が問題になる。葬儀は、人間が人間になったことの証拠だから。
 しかしその二つに加えて、第三の死がある。人びとの記憶から消えることだ。
 ひとは死んでも、ひとびとの記憶の中で生き続ける。だが覚えている人がいなくなったとき、そのひとは第三の、つまり最後の死を迎える。
 一部の例外的な人だけが、何千年も人びとの記憶に残り続ける。ソクラテスは何も書き残さなかったが、プラトンの著作を通じて、いまだに生きている。
 だが、それは本当にごく一部の人だけの特権だ。
 
 前置きが長くなったが、四十九日に開いた「灰島かりを偲ぶ会」で、出席したみなさんに、妻の生涯について簡単に紹介した。考えてみたら、その会に出席していなかった人のために、まだ何も書いていない。
 facebookはあっというまに遠く消え去ってしまい、自分でも探すのに苦労するくらいだ。ブログならある程度残る。
 できれば、ちゃんとしたウェブサイトに書くべきなんだろう。
 私は10年以上前に「Sho's Bar」というウェブサイトを作って、いまだにNTTのサーバに金を払い続けているのだが、ワードプレスやらなんやら、最近のウェブ制作事情に疎くなってしまったので、開店休業状態が続いている。
 来年、大学を辞めたら、ちゃんとしたものを作り、ここに書いたことも、そちらにコピーしようと思う。
 妻が少しでも多くの人の記憶に、たとえわずかでも残りますように。
 もちろん、妻が書き残した未発表原稿も掲載したい。
   
 妻の旧姓は蓜島。くさかんむりに「くばる」である。以前はパソコンでは打てなかったが、最近出てくるようになった。きわめて少ない苗字である。
 生年月日は1950年6月2日。私より2歳上だ。
 年齢詐称のエピソードは以前書いたので省略。
 実家は江戸川べりにあった「鴻月(こうげつ)」という、川魚(鯉とか鰻とか)の料亭だった。かなり大きな料亭だったそうだ。江戸川乱歩が常客だったと聞いたことがある。
 市川駅からバスで20分、バス停から歩いて15分という、かなり不便な場所だったようだ。
 
 小学校は地元の公立にいった。高学年のときに担任教師(若い男性)からセクハラを受けたという話を何度か聞かされた。放課後、教室で、先生の膝に載せられ、体を触られたと言っていた。それで学校に行くのが苦痛だったという。
 
 妻は子どもみたいな字を書いた。小学校時代、書道教室に通っていたそうだが、その先生が「自由に延び延びと書くべし」という方針の先生だったので、ちゃんときれいな字を書くことを教えなかったらしい。その先生から、いつも「きみの書く字はのびのびと自由で大変よろしい」とほめられていたおかげで、人から「字がへただねえ」と言われても、まったくコンプレックスを感じなかった。幼い頃の刷り込みというのは恐ろしいものだ。
 資生堂時代、編集長から「手紙は他の人に代筆してもらうように」と命じられていたそうだが、本人はまったく屈辱感を抱かなかったそうだ。
 じつは初めて彼女から手紙をもらったとき、その字を見て唖然としたのだが、本人は「あなたの字こそ、お習字の先生みたいでいやらしかった」と言っていた。
 とはいえ、ご祝儀などで封筒に字を書かねばならないときは、わが家ではいつも私が書いていた。
    
 小学校では成績が学校で一番だったので、高学年になると、毎日曜、父親に連れられて、四谷大塚進学教室に通っていた。父親は、毎日曜に娘を進学教室に連れて行くのがいちばんの楽しみだったという。
 家は料亭だったが、しきっていたのは父親の母(妻の祖母)と、母(つまりお嫁さん)で、父親はあれこれいろんな事業をやっていた。
 新婚時代に、「そのまま料亭をやっていれば、きみがおかみさんで、私は『朝が来た』の旦那さんみたいに、芸事にでも没頭していられたのになあ」と、よく冗談を言ったものである。 
 中学を受験して、お茶の水女子大学の付属中学校に入った。通学にはかなり時間がかかったにちがいない。
 「お茶」では、幼稚園からいる子が超エリートで、小学校から入った子が順エリートで、中学から入った子は、勉強のできる庶民なのだ、といつも言っていた。
 ご存じの通り、女子大学の付属といっても、小中は男女共学である。
 中学高校時代のことは、同窓生のみなさんのほうがずっと詳しいだろう。
 亡くなった後、「偲ぶ会」で配る図録を作成するため、妻のアルバムを片っ端から引っ張り出してきたのだが、中学高校時代の写真がほとんどないので、驚いた。
 でも考えてみれば、私の中高時代の写真もそれほどない。昔は写真がそれほど日常的ではなかったのだ。私たちはそんなことも忘れかかっている。
 下に書くように、オーストラリアに留学していた間のアルバムも、自分が撮った写真ばかりで、自身が写っている写真はほとんどない。考えてみると、私も若い頃、旅行に行ったときなど、けっこう写真を撮ったが、「自撮り」はほとんどしなかった。昔のカメラは自撮りできなかったし。
  
 高校時代にオーストラリアに一年間留学した。これは父親のコネで、ロータリークラブの奨学金をもらったんだそうである。その一年間で英語力を身につけ、さらに国際基督教大学に進んだので、さらに英語に磨きをかけた。大学卒業後、しばらくホテルで通訳をやっていた。
 留学のため、卒業が一年遅れた。だがそのおかげで、二学年にわたって親友たちができた。
オーストラリアから帰って直後の写真をみると、まるまる肥っている。
 
 話が前後するが、ホテルで通訳をやっていたとき、アメリカだかイギリスの有名な催眠術師の通訳をやって、実験台になったが、妻は催眠術がかかりやすい性質で、かかったまま、なかなか覚めなくなってしまった。じつはその日、大学の卒業式で、それに遅刻したため、いわゆる丸囲み写真になってしまったそうな。
(続く)

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