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年齢詐称

 結婚するとき、妻は年齢を詐称していた。
 などと書くと、なにか物騒だが、もっと他愛ない話である。
 そもそも結婚のときは戸籍謄本を出すのだから、詐称なんてできないでしょ、というご意見もあるでしょう。
 まず、今から35年も前の話であることを申し上げておく。私を含めて日本人というのは忘れっぽい人種だから、35年も前の日本社会を正確に記憶している人がどれほどいるだろうか。妻は年上であることを気にしていたのである。
 
 妻と初めて会ったのは1981年の秋のこと。場所は新宿ゴールデン街の「ジュテ」というバーだった。元フランス映画社にいた女性がママをやっていた。
 その少し前に、中学一年のときからの友人である四方田犬彦から電話があり(当時はケータイもメールもない)、「花椿」につとめている女性の知人が、翻訳をやってみたいので、誰か翻訳界のことをよく知っている人を紹介して欲しいと頼まれたという。それで私と引き合わせたいという話だった。当時、私はまだ2冊くらいしか訳書を出していなかったが。
 妻と四方田とは、山田宏一氏の家で知り合った。平凡社の関口さんが紹介したのだそうだ。そのことは、先日の四十九日の会のとき、関口さんの口からきいて、はじめて知った。
 山田さんは四方田の映画評論の大先輩であり、妻は「花椿」の原稿を山田さんに依頼していただけでなく、山田さんの翻訳の下訳をやっていた。四方田も妻も、山田宏一さんを囲む若者たちの仲間に属していたのである。
 
 一部の人には有名な話だが、2度目のデートで結婚を申込み、イエスの即答を得た。キスも、もちろんセックスもしないで、である。いわゆる電撃結婚である。
 その翌週には私が妻を家族に紹介し、その次の週に私が妻の実家を訪ねた。そのとき、妻の母親から「いつ式を挙げるんですか」と聞かれて、「これから式場を探します。式場が見つかるかどうかによりますが、まあ1年後くらいでしょうか」と答えたら、「それは困ります。もっと早くして下さい」と言われたのを妙に良く覚えている。
 当時、妻は31歳だった。6月になると32歳になってしまうというので、31歳のうちに嫁がせたいという意味だったようである。先に述べたように、35年前の日本の話である。
 
 結局、4月2日に式を挙げた。私は誕生日前だったので29歳、妻は31歳だった。
 その前に、妻から折り入って話があると言われた。自分の出生日は戸籍上は1950年6月2日だが、事情があって親戚のある人物と戸籍を入れ替えた。1951年3月2日が本当の出生日なのだ。だから結婚時には、本当は30歳なのだ、と。
 後から考えれば、そんな馬鹿な話はありえないのだが、なんとそのとき私はそれをそのまま信じた。そして自分の両親にも、彼女の実年齢は戸籍の年齢よりもひとつ下なのだ、と説明した。
 翌年の7月13日に娘が生まれた。じつは前日だったか前々日だったか忘れたが、破水して、私が車で病院に連れて行き、そのまま入院になった。で、誕生予定日の朝、病院に電話したら、「陣痛促進剤を使うが、生まれるのは早くて夕方だろう、深夜になるかも知れない」と言われた。それで、徹夜に備えて、読む本などをもって、妻の母を乗せて、病院に向かった。
 その車の中で、妻の母が「あの子を生んだときも暑い日で・・・」と話すのを聞いて、思わず「あれ、生まれたのは3月じゃなかったんですか?」と聞いた。妻の母が、いったい何の話だというので、私が妻から聞いた話をすると、それは嘘です、と言う。このとき、ばれたのである。
 あとで妻にその話をしたら、「えへへ、ばれちゃったか」と言って舌を出していた。
  
 病院に着くと、なんと娘はすでに生まれていた。何しろ妻は薬というものを飲んだことがないので、陣痛促進剤がすごくよくきいて、予定よりずっと早く生まれてしまったのである。だから、ドラマなどでよくある、廊下で待っていると分娩室の中からオギャーという声がする、というシーンは経験しなかった。
 
 その後しばらくして、その話をうちの両親に話したら、ふたりは腹を抱えて笑い、「なんて可愛い子なの! おまえは本当に可愛いお嫁さんをもらって、よかったね。大事にしなくちゃだめだよ」と言っていた。
 私の両親は妻のことをものすごく可愛がっていた。父はもう30年近く前に死んだが、母は生きている。が、施設に入っていて、認知症もだいぶすすんでいるので、妻の死は知らせていない。亡くなるまで知らせないつもりだ。
 
 先に述べたように、私たちを引き合わせてくれたのは四方田犬彦だったので、結婚式のときに、新婦の分の伊勢エビを彼にプレゼントしようと言っていたのだが、式場の人からそんな面倒臭いことはできない、と言われてしまった。
 この話には後日談がある。
 メールで、四方田に妻の死を知らせたところ、彼は、自分がふたりを引き合わせたという事実はない、と断言したのである。
 これには面食らったが、考えてみれば、その機会は、私と妻の一生を決定したのだったが、四方田にとってはさほど重要な事件ではなかったのだろう。それで忘れてしまったのだ、忙しい人だし。記憶とはそんなものだろう。 

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