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早期発見

 近藤某医師は「早期発見なんて意味が無い」と言うが、そんなことがあるはずがない。
 妻の場合も、早く発見してさえいれば、あと20年は生きられたのだ。
 妻は、家系的に胃腸が丈夫だった。自分でも「鉄の胃袋」の持ち主だと言っていた。一方、私のほうは家系的に胃腸が丈夫でない。妻はよく冗談半分に、「鈴木家では食品が古くなるとさっさと捨ててしまうが、うちでは『危なくなってきたから、さっさと食べちゃいましょう』ということになる」と言っていた。
 がんは胃の強い弱いとは何の関係もない。つまり、胃の弱い人が胃がんになるわけではない。そんな単純なこと、ちょっと考えればわかるはずなのに、夫婦そろって、妻ががんになるとは夢にも思っていなかった。
 いや、妻は父とその姉たち全員ががんだったので、自分もがんになる可能性が高いことは自覚していた。だから乳がんの検診は毎年欠かさず受けていた。が、バリウムを飲むのが苦手で、内視鏡を呑み込むことはもっと苦手だったので、鎌倉市からの定期検診のはがきがくると、胃の検査のチケットだけ捨てていたのである。
 なんてばかな夫婦だろう。
 私も妻も、私が先に死ぬと思っていた。だから私は生命保険にいくつも入っているが、妻はわずかしか入っていなかった。今となっては、保険金なんてどうでもいいが。
 
 そんな妻が、2013年秋、急に胃が痛いと言い出した。近所の医院で内視鏡検査を受けたところ、「胃潰瘍だと思うが、がんかもしれないので、大きな病院で再検査してくれ」と言われた。どうせ行くならと、築地のがんセンターに行ったところ、胃がんと診断され、即手術の必要有りと言われた。
 
 2014年2月に胃がんの手術をして、胃の3分の2を摘出した。執刀してくれたのは、築地の国立がんセンターの副院長をつとめていた名医である。そのとき、「4年物」のがんだと言われた。きれいにとれたが、すでに「外に出ている」ので、再発・転移の可能性がある、再発・転移した場合は助かる見込みはほぼない、とはっきり言われた。
 それから1年半、毎月、がんセンターで検診を受けたが、腫瘍マーカーが上がったり下がったりしていて、転移したのかしていないのか、わからなかった。裁判でいえば、1年半のあいだ「未決囚」だった。毎月、夫婦で一喜一憂していた。
 
 手術から半年後、私は6ヶ月間の在外研究、つまりサバティカルに入った。もちろん海外なんて行きたくなかったので、大学に事情を説明したが、本人が病気ならばともかく、妻の看病という理由ではサバティカルを取り消すことはできないと言われた。
 不幸中の幸いというか、法政大学の場合、在外研究は最低その半分行けばいいことになっている。したがって、3ヶ月だけ海外に出ればいい。
 もちろん「休職」という手もないことはなかったが、その場合、半年間は無給となる。
 そこで、何回かに分けて、合計3ヶ月以上になるように、海外に出ることに決めた。そのうち2回は妻も同行し、秋にはニューヨークに3週間(私は6週間)、春にはオーストラリアのケアンズに2週間行った。
 ケアンズでは、体調がすぐれず、最初の1週間はほとんど寝ていたが、娘が合流してからは、市立図書館に通ったり、海に入ったりできるようになった。
 
 昨年の秋に、突然、息苦しいと言い出した。近所のかかりつけの医院に行ってレントゲンを撮ったら、左の肺の下半分が真っ白だった。胸水が溜まっていたのである。
 この段階で「死刑」がほぼ確定した。
 だが、まだ抗がん剤という手が残っている。ただし胃がんの場合、抗がん剤で治る人は2割だそうだ。
 その頃はまだ生きる意欲に溢れていたので、妻も抗がん剤にチャレンジした。
 だが、副作用が激烈で、3日3晩吐き続け、一気に5キロ痩せてしまった。
 それでも、薬を変えて、再度チャレンジした。今度はふつうの人の半分の量にしてもらったが、それでも副作用が耐え難く、あわてて中止した。
 にもかかわらず、髪の毛だけは半分くらい抜けてしまい、結局、死ぬまで元には戻らなかった。
 
 その時点でいわば死が確定し、がんセンターの紹介で、聖路加の緩和ケア科に通うことになった。緩和ケアというのはつまり痛み緩和ケアということで、治療はいっさいせず、痛み止めを処方してもらうところである。入院となれば、そこはいわゆるホスピスである。
 (続く)


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